ヒダマルのアニメ日記。

毎日午後8時に更新するアニメ感想ブログ。アニオタ・元保育士・隠れアスペルガーと、三拍子揃ったヒダマルがお送りします。

モーリーのメモ

他人との正義の差異をどう扱えばいいのか。 【真面目な話】

 

 みなさま、こんにちは。
 ヒダマリストです。

 

 この話題には面倒だから触れないでおこうと思ってたんですけども、ちょっとこう、この事案の枠を超える気づきがあったので書き記しておくべきだなと思って、かなり大袈裟に言うと「正義の再定義」のようなことが起きたので。

 

 知ってたはずなのに忘れてたなと。

 備忘録です。

 

 あ、いちおう、最近の二大タイトルの結論はこうです。

 

 

 

 それと、追加。

 

 

 

 どっちの味方だよと問われれば、ヒダマルの味方です。

 続きまして、本題。

 

 

「あなたの推しは誰かの地雷」

 

 

 引用されている記事はこちらです↓

 

blogos.com

 

 

あなたの推しは誰かの地雷

 

 オタクにはそこそこ伝わる言葉だと思います。

 ただ、ヒダマルには「地雷」だと感じるほどのコンテンツはないので完全には共感できません。

 

 そこで、誰にでも分かる言葉に言い換えます。

 

 

あなたが心から大切にしているものは、他の誰かにとっては唾棄すべきもの

 

 

  です。

 

 

 そんなことはない?

 そんなことはないことはないでしょう。

 

 人間は一度死ぬと生き返りません。

 だから命は大事です。

 しかし、人は他人を(または自分を)殺します。

 

あなたが心から大切にしているものは、他の誰かにとっては唾棄すべきもの」です。ここまで大きな話でなくても、似たような事柄はいくらでも転がっています。

 

www.hidamaruanime.com

 

 

「正義の差異」をどう扱うか。

 価値観の違い、とほぼ同義な気もしますが。

 同じものを見ても感じることは違うし、生い立ちも感情も経験も倫理も論理も認知も異なる他人が70憶人存在するこの世界において、そういう「正義の差異」をどう扱えばいいのか。

 

 

 感情論・好き嫌いで「お前は間違っている」と言えば、それは確実にこちらに跳ね返ってくる。表現叩き・存在否定は巡ってくる。

(それが分かってる人は、少なくとも宇崎ちゃんの表現自体には石を投げないと思う)
(上のリンクに詳しいので読んで)
(また別の問題として、献血を促すポスターとしての妥当性についてはやや議論の余地があると思う)

 

 ヒダマルの答えはこうです。

 

 

 

「尊重する」。

 

 

 

「ヒダマルはこれが好き」

「あなたはこれが嫌い」

 

 となれば、「そうなんですね」で終わり。

 相手の感性を尊重する。お互いに。

 

 

「尊重する」とは、相手の大切なものをこちらも大切にする、という意味です。

 理解できなくても、受け入れられなくても、存在することを認める、という意味です。

 

 他人が不透明であることを認める。

 他者が他者として存在することを認める。

 自分と他人は別の人間であることを認める。

 

 受け入れる必要はありません。

 許す必要もありません。

 ただ認めればいい。

 

 それが無理なら、やや乱暴に言うと、無視すればいい。

 関わらなければいい。

 放っておけばいい。

 認めるとは違って、やや幼稚な態度だけど。攻撃するよりよっぽどいい。

 

 

多様性の真実。 

 こういう観点、『「ニート」って言うな!』という書籍にも詳しいですよ。超おすすめです。

『隠れアスペルガーという才能』『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』なんかと並んで、ここ五年で読んでよかった本の筆頭に挙げられます。小説をのぞく。

 

 

「ヒダマルって、実際のところ、どういう立ち位置にいるんだろう」という疑問のもとに、数年前読みました。『我が子をニートから救う本』とかも読んでます。

 

 こちらの本の第二部、内藤朝雄さんが書かれた文章に、こうあります。 

 

Aさんにとって、「このおかげで生まれてきてよかった」と思えるすばらしいものは、Bさんにとっては醜悪きわまりない。

Bさんが命がけで守ろうとしている価値は、Cさんにとってはおぞましい野蛮人の習俗である。

Cさんにとっての幸福は、Dさんにとっては退屈な牢獄以外の何ものでもない。

Dさんが「生きている」と感じるきらめきの瞬間瞬間は、Bさんにとっては底冷えするようなウソの世界である。

光文社新書 本田由紀 内藤朝雄 後藤和智 『「ニート」って言うな!』より引用

 

  これが、「他者が他者として存在する」ということです。

「多様性」という言葉の中身です。

 

 この中で、例えばBさんがAさんを、CさんがBさんを、「お前は間違っている」と攻撃しているのが、献血ポスター騒動の構造です。

 

 

 この現実を受け入れられない人間が、他者へ発する言論の趣旨は、

 

お前であるな

 

 あるいは

 

私の理解できるお前であれ

 

 になりがちです。

 虐待する親の心理と大差ありません。

 

 

 もう少しエモーショナルに表現するならば、

  

私を置いていかないで

 

  です。

 理解できない世の中が、不透明な他人が、不愉快なんです。自分が安心したいがために、他者が他者であることを許さず、攻撃しているんです。

 

 

 

 

まとめ。

 自分用の備忘録でした。

 

 とか言いつつもちろん、ヒダマルだって未熟ですよ。じゅくじゅくです。

 黙ってられないこともある。世の中をより良いものにしたい、という気持ちがある。大きなお世話なこともあるでしょう。

 グーグルアドセンス嫌いを公言してるのとか。

 

www.hidamaruanime.com

 

 しかし、口を出すにしても、一回深呼吸して、多様性のなんたるかを再確認してからやりたいもんです。

 

 そもそもこのスタンス、じゃあどうやって他人と関わり合って社会をより良くしていくか、それができなくなるんじゃないか、という問題を孕んでる。

 ヒダマルはまだ言語化できないけど、アドラー心理学の実践で解決できそうな部分だと思う。大丈夫、なんやかんやいいつつ人は人と関わっていくし、関わらざるを得ないから。

 現状、関わりすぎ、気にしすぎ、他者は自在に変更可能だと思い込みすぎ。

 

 なんだろうな、「みんな仲良くしなきゃいけない」から、「お前が変わってくれないと仲良くできない」みたいな意識かな。

 実際は、みんなと仲良くしなくていいから、みんなと仲良くできるのに。

 

 

 尊重する。

 認める。

 それが無理なら、放っておく。

 

 忘れないようにしたいと思います。